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危機感に満ちた明治初期の京都

2011.06.30 | 過去のブログしんじ

大政奉還が行われて明治新政府が樹立されて間もなく、天皇陛下が京都を離れて東京へ移られました。江戸時代の京都(洛中)の人口は、一説には町人人口だけで40万人前後とも言われますが、明治初期には25万人程度に激減したのです。天皇陛下とともに、多くの公家や商人などが東京へ転出したのでした。

京都は、平安京建都以来の1000年の都であり、江戸時代にも江戸・大阪とともに幕府の直轄下にある別格の都市でありました。遷都はそうした地位を脅かされる大事件ですから、明治初期の危機感たるや、物凄いものがあったと思います。

そして、その危機に際して、まさに京都の総力を挙げて復興を目指したのです。先人の努力は大したものだと頭が下がります。

京都は皇室のご用達によって洗練された多くの手工芸品がありましたので、それをより多く販売するために博覧会を開催し続けましたが、岡崎に常設の会場ができるまでは、御所や本願寺などの大寺院が会場となったと言われます。

また、危機に際して天皇陛下から下賜されたり国から頂いたりしたお金を原資として、官立の会社や研究所をたくさん作りました。豪商と言える名士も出資しました。これが、現在まで繋がる京都産業の基盤を形成したと言われます。

また、3代目知事の北垣国道氏は、当時の府の年間予算の2.5倍に上る事業費の琵琶湖疎水開削を、当初の多くの反対論を説得して実行しました。常識に囚われず、官も民もなくまさに文字通り総力を挙げて、京都の復興に取り組んだ訳です。

今は、口先では「危機だ」と言い、「今までの常識では通用しない」と言いながら、官の中では、国と京都府と京都市はバラバラで、従来の路線から抜け出せず、官も民もバラバラで物事をやっています。京都府・市が好きな「オール京都」という言葉は、実態からするといい訳にしか過聞こえず、そうしたごまかしは府・市民への背信ですらあると思います。

東日本大震災は、被災地のみならず、全国に大変な影響を与えております。

それ以前からの、財政問題・エネルギー・食糧・軍事・外交安全保障・精神的荒廃・社会保障・・・。

これを国難と言わずして何というのかという状況ですが、当時のような「総力挙げて」という状況には程遠い現状です。国民・国家意識や危機感の欠如としか言わざるを得ないと思います。私も一人の政治家として自戒して、日々の活動に努めます。

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